バウンダリーは自分の中のイエス・ノー
こんにちは、かなこです。
今回は私のYouTube動画の紹介です。その前に前のブログに書いていたことを補足として付け足しておきます。
バウンダリーとは
今回紹介するのが、バウンダリーについてお話しした動画なのですが、バウンダリーとは「境界線」のことです。境界線は物理的なものもあれば、そうでないものもあります。
物理的な境界線とは、自分の内側と外側の境目である皮膚があります。あとは、目には見えませんが土地の境目である国境なども物理的です。
物理的ではない境界線とは、エネルギー的なものです。そして、時にそれは、自分の中のイエスとノーにつながっています。「境界線をひいてノーと言う」など例えると、わかりやすいでしょうか。
セッションで内面を観る作業をして進化していく中で、人は意識して境界線を引く、つまり、ノーを表明するプロセスに出合うと、私は感じます。今まで「イエス」だったものが、本当はそうではなかった、と気づいたり、自分のイエスが変わっていくからです。
バウンダリーを表明する時に出合うこと

バウンダリーを引いて「ノー」を表現すると、時に、孤独を感じることがあります。
どういうことかと言いますと、自分の内面が大きく変われば、自分のイエスも変化していき、それは時に人間関係の変化を引き起こします。そんな変わり目のときに孤独、不安、寂しさを感じることがあるのです。
人間関係の変化は自然に起こります。なぜなら自分を取り巻く世界は、自分の周波数で成り立っていますので、周波数が変われば、人間関係も変わっていきます。
クラス替えをするように自然と人間関係が変わることもあれば、自分がノーという必要が出てくることもあります。
そしてその人間関係に対してノーと言うことは、特に相手が親しい人であればあるほど、特に急激に自分の内面が変化した時に、孤独や不安を感じます。
でもそれは、自分自身が前に進むために必要な体験で、たとえ孤独を感じても、その空白がないと新しい自分にふさわしいものが入ってくる余地ができません。
一時は孤独になっても必ず新しい自分にふさわしいものが現れます。
バウンダリーの概念が解決してくれること

対人関係で何かモヤっとしたとき、このバウンダリーを見直すことが解決の助けになることがあります。
例えば、自分は本当は「ノー」なのに、気づかずに「イエス」としていて自分のエネルギーが落ちていることがあるからです。
そういう場合は、たいてい「モヤっとする」「相手は元気になるけど自分は疲れる」などの形で自分の内側からメッセージが来ています。
そんな時には自分の本当の「イエス/ノー」を探求し、相手と自分の本当の境界線を探ると自分の行動が変わり、状況が変化していきます。
モヤっとが解決でき、自分のエネルギーを落とさないようになります。
健全な社会人としてのバウンダリー

社会人として他の人と接するとこういうことがあります。
- 対人関係でバウンダリーをどこにひいていいかわからない
- 「ノー」を表明してバウンダリーをひいたけど「私の方が悪いのかな」という気持ちになってしまう
そういったケースで、たまに聞くのが「スピリチュアルではこうだから~」と言われて「それってちょっとおかしくないかな?」と自分の価値基準で思いつつも「そっか・・・スピリチュアルではこうなのか・・・」と無理矢理納得してしまい、「イエス」と言い、後でモヤっとする、という状況です。
こういったお話し、たまに聞きますし、実は私自身、何度か経験しました。
そういったシーンで、相手に「ノー」を伝えることができたものの、「私、心が狭いのかな・・・」とモヤっとする。実は私は、何度かありました。
その「ちょっとおかしくないかな?」と感じた自分の価値基準というのが、健全な社会人として生活して培った基準だった場合、スピリチュアルの名のもとに、それを手放す必要は全くありません。
自由になる、とは、人と人が気持ちよく付き合えるためのルールを無視することではないからです。
こういった「モヤっと」は「相手が自分よりもスピリチュアル的に進んでいるのかも」と感じている状況の時にも、体験されることがあります。(何度も言ってしまいますが、私がそうでした)
もちろん高い視点で見たら、誰かが誰かよりもスピリチュアル的に進んでいる、ということはありません。
ですが、物質次元での状況を見た時に、その相手というのが、スピリチュアルグループに古くから属する人だったり、自分がお世話になっている人だったり、もしくは、相手の方がエネルギーに敏感、とか、それこそ、「視える」人だったり。
「この人が言ってること、自分的には違和感があるけど、この人の方がスピのこと良く知ってるから、そうなのかな」みたいな。
そんな時には「自分がおかしいのかも」「自分の心が狭いのかも」「考え方を変えなきゃいけないのかも」と思ってしまうことがあります。
ですがそれは、自分の権威を手放している可能性があります。
権威とは、オーソリティ、と言われたりしますが、自分の権威を手放さない、というのは、簡単に言うと自分軸ということです。しっかりと自分に根差して、そこから自分の選択を一瞬一瞬おこなうこと。
逆に、権威を手放す、というのは、自分を手放して他人軸になってしまうことです。自分の感性を無視したり、抑えたりして、相手に同意・同調する。
自分が何かおかしい、モヤっとする、と感じたら、やはりそこに探求すべき何かがあるのです。
バウンダリーは必要ない、という見解について

「『バウンダリー』と言うけれども、じゃあ東京と台湾の空気は違うのかと言ったらそんなことはない。全部同じだ。明確な区分けはない。すべてはつながっていて、一つなのだから」と、いう意見も耳にします。
確かにその通りで、実はこういうことはたまにあります。スピリチュアルな矛盾、といいますか。
これは、どちらが正しいのかと考え始めると二元性の対立の世界になってしまいます。
私の見解ですが、これはどちらが正しくて、どちらが間違っているということではなく、自分が何を採用するかなのだと思います。
「これ」が必要な人もいれば、「あれ」が必要な人もいる。同じ人でも前は「これ」が必要だったけど、今は「あれ」の方が必要。なんてことなんだと思います。
つまり、今の自分にとって何が役に立つか。今この瞬間の自分にとってどんな考え方、やり方が有用か。
何を採用するかの決め手は、「役に立つかどうか」です。
ですので、やはりこれも、自分の感覚でイエスとノーを決めればいいのです。
(というか、「すべてはつながっていて一つだ」と言う方のほうが、バウンダリーを自然に引くのが上手な気もします・・・)
それでは、前置きが長くなりましたが、YouTubeをご覧ください。